私が生きてこなかった人生

ためらわず踏み出してゆくわ

組曲虐殺

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朝、ご飯の後にみかんを食べようとして、甘くなるように揉んでいたところ急に思い出された。

「みかんどっちから剥きますか」
「私はお尻から」
「私は頭からです」

なんだっけこれ…?と思い出せば、先週末に観た「組曲虐殺」の二幕のセリフ。小林多喜二が母のためにちょっと良いみかんを買って、おまけにもらった分を仲間に分けた場面だった。

母のためにみかんを買う。美味しそうだなとわくわくしながら食べようとする。そんな何気ない場面なのに、この作品では一番好きな場面だった。
フルーツパーラーに集まった多喜二とその姉、元恋人、妻、彼を追う2人の警官はそれぞれ暗い原体験を抱えている。だから分かり合える。それぞれの過去を認められる。けれど、そんな憩いの時間もつかの間、多喜二は殺されたのだ。その思想が危険だと見做されたから。警察権力によって拷問をもって排斥された。

“赤”と呼ばれる彼らのことは、私自身よく分からない。当時一市民として生きていたら、どういう目を向けていたのかなんとも言えないところがある。

だだし「理解できる/できない」を抜きにして、多喜二は一人の人間だった。心の映写機を大切に、大切にしている青年。多喜二を演じる芳雄さんの講演で朗読を聴き、今回観劇するきっかけとなったセリフも、初めて聞くかのように新鮮に瑞々しく体に染み込んできた。
多喜二の希望に焦点を当てた温かいお話なのに、やっぱり引っかかる。どうしても付き纏う。分からないから、怖いから、危ないから。そんな理由で多喜二は命まで奪われたんだろうか。

と、悶々とし続けたところに、先日のヘロデ大王で完全にやられてしまった成河さんのブログが更新された。「暴力の歴史」という演劇をご覧になった際の感想である。

自分の生理を、「正直な自分」「本当の自分」みたいな言葉に託して、ただ無反省にそれを美しいと思うのはとても危険なことだ。「だって嫌なんだもん」「だって気持ち悪いんだもん」「ワタシはワタシだもん」というある種の幼さが今、世界中を覆っていて、それが排他主義に繋がっている。

 

暴力の歴史 | web dorama de songha

 


そして、5月に観た映画「おとなの恋の測り方」にもこんなセリフがあって思わずメモしていた。

私たちは先入観を植え付けられて
違いのある人を受け入れられなくなってしまう
「皆同じ」がいいと
これじゃ私たちもナチスと変わらない

 

 

全部違う作品で違うテーマなのに、警鐘を鳴らす一番の核となる部分はたぶん同じなんじゃないかな、と思う。


恋人に香水の香りを覚えさせるとか、花の名前を教えるじゃないけれど、日常生活の節々で観た記憶や聴いた記憶が思い出される場面が多々ある。楽しい音楽も苦いセリフも何かを喚起してくる。そういう追体験が好きだし、お芝居を観ることがやめられない理由の一つだと思う。

次にみかんを剥こうとするときもきっと、多喜二のことを思い出す。そして考える。

みかんどっちから剥きますか。