私が生きてこなかった人生

ためらわず踏み出してゆくわ

『グレート・ギャツビー』を探して

月組公演『グレート・ギャツビー』を最初に観たのは、2022年7月23日のことだった。暑い日だったのを覚えている。前々日の21日から雪組公演『ODYSSEY』の初日を観るために大阪に滞在しており、22日もオデを観て、23日もオデを観てから15時30分開演の宝塚大劇場に向かう。

ギャツビーは新型コロナウイルスの影響でしばらく中止となっていたため、22日の初日から数えて3回目の公演だった。これはあの日初めてギャツビーという男に出会った私が、それからの2ヶ月半、『グレート・ギャツビー』と過ごした記録である。

 

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月組公演 『グレート・ギャツビー』 | 宝塚歌劇公式ホームページ

 

グレート・ギャツビー』は、F・スコット・フィッツジェラルドの手によって1925年に誕生した。"英語で書かれた20世紀最高の小説"と言われ、日本語訳が出版されること7回。映画化は5回。宝塚では1991年の初演以来、3回目の上演となる。

そんな超人気作との初対面をワクワクした気持ち迎えたものの、開演から3時間後、びっくりするほど何が良いのか分からず動揺した。

確かに私も浮かれていたのだ。ご贔屓である彩海せらくん(あみちゃん)が出演する約1年ぶりの新作大劇場公演。嬉しくて、2役の本役もバイトも全部オペラでキャーキャーしながら観ていたから、主人公たちの動きや表情をほとんど観られていない場面も多い。けれどそれにしても巻き起こる事件と、それによって動いていくキャラクターの気持ちに全く追いつけなくて、世の中の人々はこの物語の何に熱狂しているのだろうと途方もない気持ちになってしまった。

ジェイ・ギャツビーと名乗る男が、恋に落ちた歳下の金持ちの女の子・デイジーを戦争中も思い続けて5年。裏の仕事で成り上がった彼は、デイジーと夫が暮らす家の対岸に豪邸を建て、偶然の再会を夢見て夜な夜なパーティーを開く。ようやく再会できたのも束の間、彼女の殺人の罪を被って命を落とす。今書いていても意味が分からないあらすじじゃないか。散々なこの話のどこにときめけというのだろう。その日のお昼まではオデのことで舌が絡まるんじゃないかというほど喋り続けていたはずの私と友人も、帰りの新幹線の中では「全然刺さらなかった……」としか言えない時間を過ごした。

しかし『グレート・ギャツビー』は、間違いなく地球上でも類を見ない名作中の名作のはずだ。今回のイケコ(宝塚の座付き演出家・小池修一郎先生)の演出でその理由が分からなかったとしても、ここで諦めるなんて面白くなさすぎる。小説の日本語訳出だっていくつもあって、それごとに見え方が違うと書評家の三宅香帆さんも言っていた。だから私は探しに出たのだ。次なるギャツビーに出会わなければならない。

 

最初に手にしたのは原作小説の中でも、日本で一番初めに出版された野崎孝訳だ。初版は1957年。なんとなく谷崎潤一郎とか有吉佐和子の文体を思い出す。難なく読めるものの言葉遣いはちょっとややこしくて、面白くて惹き込まれるうちにそれすら段々と魅力的に感じられるようになるあの感覚。

でも何よりも気になったのは、デイジーの又従兄弟であり、ギャツビーの隣人・ニックの存在だ。原作小説の『グレート・ギャツビー』はニックがギャツビーに出会ってから、ギャツビーを弔うまでの体験を彼自身が語る物語である。そういった形式だと耳にしたことがあったものの、いざ文章で読んでみると冒頭のニックの自分語りがたまらなく鼻につくので驚いた。ギャツビーが出てくる前のプロローグの時点で、このままではニックのアンチになるしかないとすら思ったのだ。訳出の文体も相まってますます斜に構えた傍観者気質に見えるし、おまけに今年の月組版で演じているおださん(風間柚乃さん)ニックの真面目で朗らかな人柄と比べてしまうと性格がだいぶ悪い。彼は出会い頭からギャツビーを滑稽だと思っているし、偽りの出自を告げられた際には吹き出しそうにまでなっている。

ただしギャツビー自身も、宝塚版に比べると大層愛嬌のある人物なのだ。エレガントだが作り物の気取った態度はニックもすぐに見破れるほどで、デイジーと再会する場面では情けないほど緊張でぎこちない様子を見せる。どちらの場面もギャツビーの偽りきれない実直さにニックも私もクスクスと笑い、彼を励ましたくなってくる。そして最後にはギャツビーこそ、価値のある人間だと思うようになる。いつのまにかニックと一緒になってギャツビーを好きになってしまった私は、この物語が手にした名声のワケに気づき始めた。作中でニックがジェイ・ギャツビーという人間に魅せられ肩入れしていくのと平行するかのように、『グレート・ギャツビー』という幾重にも人間のどうしようもなさが描かれる輝きに魅入られ、夢中になってしまっていたのだ。

 

ここまでおよそ3週間。本当はもっと早く読むつもりだったが、再び月組公演が中止となってしまった。友人が当ててくれたS席の超前方のチケットも持っていたし、あみちゃんが新人公演でギャツビーを演じる姿も観られるはずだった。その分の休みもオデに振り返え、オデのブログを書き……としていたらいつの間にか8月の前半が過ぎようとしている。

 

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面白さは分かったので、次は映像を観てみることにした。映画としては最も新しい、レオナルド・ディカプリオ主演の『華麗なるギャツビー』。精神を病んだニックの回想として語られ、ギャツビーやデイジーたちの描き方は原作に忠実。後半はレオ様演じるジェイの愛らしさが溢れんばかりで、あのままギャツビーが死ななければニックとくっついて東部を離れていたようにしか思えない。

 

その日はそのまま宝塚版の再演である、瀬奈じゅんさん主演のバージョンも観た。原作で繰り返し語られる「人を殺したことのある顔」が垣間見える、瀬奈ギャツビーが本当に良かった。おまけに両片思いの話に見えたのだ。理想だけに生きるギャツビーと、結婚・出産で現実を知ってしまったデイジーは、お互いを想いながらも相容れることはできない。

 

その後、宙組公演に向けて『HiGH&LOW』シリーズをひたすらに観ていたため、1ヶ月ほど経って原作小説に戻る。大貫三郎訳と村上春樹訳を読んだ。大貫訳はめちゃくちゃな解釈違いで、ジェイは絶対にそんな喋り方しない……と憤慨しながら進んだ。訳者あとがきで大貫さんは彼のことを"ヒロイック"と言っていたので、本当に解釈違いだったらしい。

村上訳は大貫訳と比べると、圧倒的に野崎訳に近い。野崎訳をさらに身近に、くだけた雰囲気で読みやすく、エピローグでのニックの語りが澄んだ藍色の夜の海を感じさせてとりわけ素晴らしい。同じ物語のはずなのに、訳出だけでこうも違うのかと驚いた。

 

余談だが月組公演を観て『グレート・ギャツビー』を知った暁には、絶対にこれも観るんだと心に決めていた映画がある。『ファイトクラブ』。原作小説を書いたチャック・パラニュークは、"『グレート・ギャツビー』の現代化"と語っている。簡単に説明するなら、ギャツビーとニックが一体になるバイオレンス・マッチョイズム・ロマンスだ。ハイローのエッセンスもかなりあるので、今、東日本に住むヅカオタにはぴったりだと思う。

 

さて、ここまできてようやく月組を観られる2回目のチャンスが回ってきた。東京公演が始まったのである。『グレート・ギャツビー』の尻尾を掴んだ私には、あの舞台がどう映るのだろうか。

 

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今回の月組公演を含む宝塚版では、宝塚あるあるな群衆芝居の場面、トップコンビや主要キャストのための回想シーンやナンバーが追加されているものの、原作小説とストーリーの大筋は同じである。しかし物語が大きく動くようなキャラクターの行動の動機に関しては、ほとんど改変されていると言っても差し支えない。

ギャツビー、デイジー、トム、ニック。デイジーの親友・ジョーダン、ニックの愛人であるマートル、マートルの夫・ウィルソン。この7人の思惑が絡み合った結果、ギャツビーは死を迎えるわけだが、マートルが車の前に飛び出した理由も、ウィルソンがギャツビーへ復讐しに行く理由も原作小説とは異なる。原作でニックは恋仲になったジョーダンを自ら手放すし、デイジーはギャツビーの葬式には現れない。

何よりギャツビー自身が元々知っているのだ。自分がデイジーを愛しているのは、彼女が出会ったこともないような金持ちの娘で、その存在のそのものに憧れ恋しているのだと認めている。彼はデイジーの声のことを、「ぎっしり金が詰まっている」と言った。お金と愛情を一心に受ける箱入り娘だから魅力的で、苦労せずに育ってきたからこそ振りまける天真爛漫な光に夢中なのだ。ギャツビーはようやく再会したデイジーが、かつて上流階級への憧れの象徴として恋焦がれていたデイジーではなくなってしまったことにも気づいている。デイジーがマートルを轢き殺してしまい、彼女の罪を被ることを決めたあとも、デイジーが電話を寄越してはくれないことにも気づいている。それでも生まれたときから貧しく、野望と運だけで成り上がってきたはずのギャツビーがデイジーに出会い彼女が欲しいと思ってしまったからには、彼女を手に入れることでしか正解に辿り着けないと言ったほうが正しいだろうか。最後の最後まで自分の描く理想に見出した希望だけを信じて続けて、その生涯を終えることになる。

 

一方で宝塚版、特に今回の月城かなとさん(れーこてぃん)主演の月組版は、間違いなく自己犠牲を貫いた愛の物語だ。ギャツビーとデイジーは死による別れを迎えるけれど、確かにお互いを想い合っているし、想ったまま物語は幕を閉じる。私は人間が欲とエゴでぐちゃぐちゃに翻弄されていくのが好きだからどちらかと言えば原作派だが、宝塚の大劇場公演として上演されるにはあの改変がよく分かる。

イケコの乙女センサーにはれーこてぃんの純度が反応しているようだが、れーこてぃん本来の持ち味というなら最も柔らかく温かな純粋さであって、『ピガール狂騒曲』のシャルルおじさんや、『今夜、ロマンス劇場で』の健司が当たり役であり真骨頂だと思うし、私は好きだ。けれど同じタイプを続けてやるわけにもいかないことを踏まえると、ギャツビーのような硬質で尖ったきらめきを今観たいと思うのも分かる。

 

そしてイケコは、宝塚版において「貧富の差」というのも明らかにテーマに置いている。原作も「身分差」を一つのキーワードにしているのは間違いないが、ウィルソンを見下していたはずのニックがウィルソンと同じく"自分の女が逃げていく"状況に置かれて初めて嫉妬心をむき出しに焦っていくのはむしろ、「貧富の差があろうと同じ人間であることには違いがない」と描いているように思うのだ(原作のニックはデイジーだけでなく、マートルさえも自分の元から去っていく可能性にとんでもなく慄いている)。だからこの点もイケコオリジナル改変ポイントになるわけだが、「♪神は見ている」前のセリによってウィルソンの上で暮らすニック・デイジーという構図が表され、さらに成り上がってきたことを表すように手前からセリ上がってくるギャツビーという演出には震えが止まらないほど痺れた。改めてイケコはステージングの天才だと思う。本当にすごい。

 

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月組公演の面白さがやっと掴めたところで、ついに本命の到来だ。満を持してようやく出会えたのは、9月22日の18時30分開演、新人公演であみちゃんが主役を演じる『グレート・ギャツビー』。彼は本公演に加えて原作のギャツビーらしさが上乗せされた人物であった。ニックが口にしたトムとデイジーの名前に対して動揺もせず再会の嬉しさを噛み締めているところ。「デイジー」と吐息混じりに呟いた声。デイジーがオーダーメイドのシャツに目を輝かせているのを見て、満足げにうっとりと笑うところ。アイスキャッスルでの人を殺したことのある目つき。羅列すれば永遠に出てくる。もちろんこれは新人公演を担当した田渕大輔先生の演出意図が大いにあるだろう。それにしてもバランス感覚のある役作りで、ああやっぱりあみちゃんの芝居がたまらなく大好きなのである。

そして、本編の最後、彼が命を落とす瞬間を観て、初めて私は探していたジェイ・ギャツビーを見つけたと思った。原作でも描かれなかった最期の瞬間のジェイは、自分が撃たれたことに驚き、その痛みに耐え、夢の終着地であったはずのデイジーに手を伸ばし続けて死んだ。彼はウィルソンに銃を向けられている最中も、まさか自分が死ぬなんて考えていなかったのではないか。撃れて初めてその可能性に気がつき、しかしそれでもまだ自らの夢が叶い救われると確信していたのではないか。そうすとんと腑に落ちて、彼の白いスーツが真っ赤に染まるのを眺める。1922年9月の暑い日。ギャツビーが死んでぴったり100年後のことであった。

100年後の今、彼に出会った私はどこまで陶酔に満ちた未来と希望を信じられるだろうか。彼のようにどこまで青くまっすぐにいられるだろうか。夏が終わり、秋が通り過ぎ、どこかでは冬の匂いがしている。