私が生きてこなかった人生

ためらわず踏み出してゆくわ

アギラールという人間ーー宙組『NEVER SAY GOODBYE』

人間の愚かさが愛おしい。この感情を際立って思い出すのが演劇だと思うのですが、またひとつとんでもない愛おしさを見つけてしまいました。宙組公演『NEVER SAY GOODBYE』。戦争と手にしてしまった権力によって運命が狂い、悪役として死んでいった人間の話をしたいと思います。桜木みなとさん(ずんさん)演じるアギラールです。

 

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宙組公演 『NEVER SAY GOODBYE』 | 宝塚歌劇公式ホームページ

 

舞台は1936年のスペイン内戦。戦争を描いた物語での悪役というと、人々を熱狂させるカリスマや巨悪とされる人物を思い浮かべるのが普通でしょう。ところがどっこい、作中の誰よりもひとりの人間らしさを見せるのがアギラール。彼は統一社会党の幹部であり、バルセロナの自民オリンピックで宣伝部長を務める人物です。オリンピックの開幕直前、スペイン内戦が勃発。バルセロナ市長からその一報を受けた彼は、市民やオリンピックの参加者たちにバルセロナを守ろうと呼びかけ、蜂起。初めての戦いでは見事勝利を収めます。しかし、一連の出来事で「民衆の先頭に立ちバルセロナを守る」「バルセロナを守るためには人々を教育し、ひとつに統制することが必要」と強く感じ、その道を突き進むと決めた彼は粛清に動き出すのです。

これがアギラールの愚かさなのですが、愚かというのは一種の幼さであり、凶暴にもなりえる純粋さを持っているからこそ陥るものだと思います。蜂起の場面での彼はそれはそれは一生懸命で、街や人を守るためにひたむきな人物そのものです。バルセロナを守ろうと宣言し、それに呼応した人々に求められて手を握る。あのとき彼は、初めて自分の肩書きが誰かのためになる瞬間を目の当たりにしたのではないでしょうか。そして手の中にあった権力を、戦争という状況の中で使おうと決意したのではないでしょうか。ずんさんのアギラールは戦う民衆の1人ではなく、民衆のリーダーになることを選んだ。これが彼の運命を狂わせたのだと思うのです。

先日の新人公演では、亜音有星くん演じるアギラールでこのシーンを観ました。亜音くんのアギラールを例えるならば、『レ・ミゼラブル』のアンジョルラス。オリンピックの旗を掲げるときに放った強烈な光。そして人々を先導するためにあるような突き抜ける声。民衆の期待を一身に受けて発光するカリスマ的な存在感で、彼はなるべくしてその立場を背負ったのでしょう。

一方で、ずんさんのアギラールは光りません。群衆芝居の中でも、彼は周りの民衆を圧倒するまでの存在感がない。私たちは客席から見ているためにそのことを知っているけれど、アギラールは自分で先頭に立つ決意をして、それを民衆も支持してくれると信じている。だからPSUCの政策に民衆が意を唱えることに納得がいかないし、反対にPSUCこそが騎士だと讃えられれば満更でもなさそうな顔で喜ぶ。そういった率直な純粋さを持ったひとりの人間です。その人間が自分が正しいと、自分こそが勝利に導ける存在だと信じたまま、思うがままにならない人々を思い通りにさせようとしたら……それは悪役と言われる存在に変わります。そして、彼の存在を疎ましく思ったPSUC側のロシアの諜報員・コマロフによって、あっけなく背中から撃たれてその生涯を終えるのです。

私はこのずんさんのアギラール像が本当に本当に大好きで、素晴らしいお芝居だったと心から思います。祖国や安全な土地に帰らず、命を懸けて戦う決意をしてしまったカメラマンやオリンピック参加者。心をひとつした同じ街の中でも対立する人々。平時ならば絶対に選ばない選択をしてしまうのが戦争の恐ろしさならば、彼も極限の状況化で運命が狂った民衆のうちのひとりです。

『NEVER SAY GOODBYE』という名作が、今、宝塚の舞台に帰ってきてくれたこと。それを目撃できたこと。本当に幸せな巡り合わせだったなと噛み締めます。立ち上がる人間の眩しい命の輝きと、あるとき一瞬でそれが奪われ、世界が無に返ってしまう引き裂かれるような哀しさも、この作品を通して味わうことができて本当に良かった。宝塚としてはかなりレアリズム寄りな作風ですが、大作が並ぶ小池先生の作品のなかでも一番に好きなミュージカルになりました。

そして、桜木みなとさん。ずんさん。最初に好きになったのも小池先生の『オーシャンズ11』で悪役・ベネディクトを演じていたときだったので、開幕前からずっとずっと心待ちにしていたアギラール。何に打たれようが屈しないカリスマ性から部下に愛されるベネディクトとは違い、アギラールの亡骸がひとり残され、せり下がっていくのを観るのは本当に悲しかった。コマロフが手を挙げると同時に去っていったPSUCの警察隊のひとりぐらいは、アギラールが帰ってこないことに疑問を抱いていてくれたのだろうか。

アギラールの幼稚さが際立つラジオ局の場面。恋人のキャサリンに対して"自分の思う通りに生きてほしいとはエゴだから言えない"と彼女の選択を支持する主人公のカメラマン・ジョルジュと、無理やりキャサリンに薬を打つことで我が物にしようとするアギラール。彼がキャサリンを欲しいのは、彼女を好きだからとか彼女自身の存在を本心から欲しているからではなくて、ジョルジュという民衆に支持される人物へのコンプレックスじゃないですか。ずんさんの演じた『エル ハポン』のエリアスも心の幼さ故に剣の腕だけが上達し、人も自分も傷つける不器用な子だったけれど、彼にとっての治道やアレハンドロさんや藤九郎に出会えたなら、アギラールも正しい力の使い方を知りどこかで仲間を手にすることができたのだろうか。そんなことばかり考えてしまいます。

人間が持って生まれ、生きてゆく中でだんだんと研磨されていくはずの澄んで尖った結晶みたいな愚かさ。その体現が恐ろしく似合い、達者な役者であることが、今のずんさんの一番の魅力だと思うのです。次の公演は主演を務める『カルト・ワイン』。ワインの偽造で業界のセリブリティに成り上がり、落ちぶれる若者というのはまたしてもドンピシャで美しさが映えることでしょう。あーー楽しみ!!