私が生きてこなかった人生

ためらわず踏み出してゆくわ

君自身の、本当のことを話してくれーー劇団四季『コーラスライン』

どこかの俳優さんが語っていた印象的な言葉を覚えている。

稽古、本番、毎日がオーディションだ、と。

その言葉の言う通り、私たち観客も幕が開いた瞬間から舞台の上に立つ人たちを見極めるように観ている。誰が目を引くのか、誰が魅力的なのか。自分が求めているのは誰なのか。

そのとき捉えられる要素はごく一部で、私たちはその人の人となりもアイデンティティも知らない。その人だけの苦しみも喜びも何も知らない。でもジャッジするのだ。舞台の上に表れるものだけを信じて選ぶ。その人は選ばれる。

 

コーラスラインは幕が開いた瞬間からミュージカルのオーディション中の風景である。オーバーチュアも何もなく、オーディションは進む。私たちも観る。必要もないのについ比べて、あの人が受かりそうだなぁとか、このグループだとこの人が上手だなぁとか、頭の片隅で考えながら。ある意味とても無責任な行為だ。だから演出家のザックが「履歴書に書いていないことを話してもらおう。君自身のことを」と言って、ダンサーたちの過去の話を聞くときドキッとしてしまった。だって何も知らない。知らないままに一方的に観ているって、果たして良いことなのだろうか。舞台に立つ人だって同じ人間なのだ。決してその作品のために存在しているわけでも、コンテンツであるわけでもない。コーラスラインのキャラクターたちのように皆それぞれの人生があって、舞台を目指した理由があって、先の見えない仕事だと分かっていながら続けている。それぞれの個の人間でありながら、同じようにコーラスラインに並ぶ理由は一つ。舞台を愛しているから。この仕事を愛しているから。それだけなのだ。その思いを彼ら自身から出てきた言葉で知ったとき、同じオーディションの景色も全く違うものに見えてしまった。

 

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9/21、9/22の相模原公演

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12/24の千葉公演


この一年で舞台の幕が開けられない、劇場が閉まっている、そんな非常事態を経験したからこそ、よりキャラクターたちの情熱に呼応してしまったであろう部分もたくさんあったと思う。結局、観たいのは人なのかもしれない。煌めきとか、眩しさとか、情熱とか、そういったものがほとばしる姿や、懸命に人が手がけた何かに心を震わせてほしいんだと思う。

思い返すと、そこら中の公演が中止になる直前の2月半ば、ねじまき鳥クロニクルのバックステージツアーでもそうだった。終演後に舞台に立ってみると、ついさっきまで客席から観ていた村上春樹とインバルピントの世界はもうどこにもなくて、傾斜のついた地面と左右にあるいくつもの扉だけしか存在しなかったことに驚いたのだ。確かに出演者やスタッフはあの素晴らしく見入ってしまう異質な世界を作り上げていたけれど、全てを真正面から堪能し、入り込めるのは客席にいる私の、私たちだけの特権だったと思い知りちょっぴり震えた。

ときどき怖くなる。舞台に、作品に、心も肉体も懸けている人に向き合う覚悟が私にはあるのか。簡単に見定めて、面白いとか、面白くないとか判断していいのか。

きっと観る方にもそれなりの責任が生じるのた。舞台上に表れるもの、全部を受け止めて、そこから目で見えはしない様々なものも想像して。板の上に表れるものが全てであると同時に、その表現には何もかもが詰まっていると信じている。

 

コーラスライン、ガツンと胸を打たれて、終演後には世界がずっと素晴らしいものに感じられる作品だった。下の記事でも触れたBWリバイバルコーラスラインのオーディションを追ったドキュメンタリーを観たときの感情と驚くほどリンクするので、コーラスラインはオーディションそのもの、そして人の人生そのものなのだと思う。ダンス審査→一人一人のアイデンティティに迫る面接→再びダンス審査→合格発表→全員が輝かしい姿でコーラスラインに並ぶという構成は、なんというか本当に「ずるい」の一言に尽きる。現実そのままなのに、一番心に迫る夢を見せるんだもの。

 
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